転石 苔を生ぜず 

外山滋比古

 じっとしていたほうがいいか。活発に動き回るのが望ましいか。時と場合によって違うから、一概には言えない。ただ、こういうことは言えるのではあるまいか。だいたい世の中が落ち着いて平和なときには、どっしり構えているのがよしとされる。やたらに動かれては、はたが迷惑するからである。現状維持でいこうということになる。昨日のことは今日も続き、今日のことは明日もそのとおりになる。

 

逆に、新しいことをどんどんしていかなくてはならない社会では、みんながぼんやりたばこを吹かしていたりしていては都合が悪い。精力的に仕事をする人を尊重する気風が自然に生まれる。

 

言葉もそういう世相や感じ方をかなり敏感に反映するものだ。それがもっと端的に現れるのがことわざである。

 

転石 苔を生ぜず

 

ということわざがある。これは明らかに英語の、

 

    A rolling stone gathers no moss.

 

の訳である。英語のほうは大変有名で、一箇所に長く腰を落ち着けていられないで、絶えず商売変えをするような人間に、成功はおぼつかない、もっとはっきり言えば、そういう人間には金がたまらない、という意味で使われる。ときには、これをひとひねりして、相手を次々取り替えているような人間の恋愛は、いつまでたっても実を結ばない、というように転用されることもある。

 

このことわざは、イギリスで生まれたもので、ここのコケ(moss)とは、金のことなり、と権威ある辞書にも出ているほどだ。初めは、だから、住まいや職業を転々とするような人間には金はたまらない、の意味で使われた。比喩的には恋愛でも似たことが言える、というところから、先のように応用されるのであろう。

 

今から二十年くらい前のことになるが、私は、ふとしたきっかけで、アメリカ人がこのことわざを“誤解”しているのではないか、ということに気づいた。

 

どういうふうにアメリカ人がこれを考えるかというと、まるで、逆にとっているらしいのだ。

 

つまり、優秀な人間なら引く手あまた。席の暖まるいとまもなく動き回る。あるいは、じっとしていたくても、そうはさせてくれない。スカウトされてAの会社へ行ったかと思うと、また、すぐ別のB企業へ引き抜かれる。こういう人はいつもぴかぴか輝いている。コケのような汚いものが付着する暇もない。あかやさびのようなものはこすり落とされてしまう。アメリカ人の多くが、それが、“転がる石はコケをつけない”の意味だと思っているようだと思っているらしい、ということが分かったのである。

 

同じ英語どうしでありながらこういう“誤解”のあることを大変おもしろいと思ったので、私は、そのころ編集している英文学雑誌の編集後記に、ローリング・ストーンのことわざにはアメリカの新解釈が現れているようだと書いた。

 

それを書いた後、いったいどうして、そういう違った解釈が生まれたのだろうか、を考えた。たまたま、そのころ読んでいたアメリカ文化論に、祖父の住んでいた所に住んでいるアメリカ人がごくわずかしかないのに、イギリスでは三代同じ土地に住んでいる人間がその何倍もあると書いてあったのがヒントになるのではないかと考えた。

 

つまり、アメリカは流動社会であるのに、イギリスは定着社会である、ということだ。アメリカでは人間の移動は肯定されている。なるべく動いたほうがいいと考えられている。他方のイギリスでは石の上にも三年式に、なるべくなら同じところにじっとしているのがよいと考えられる。伝統を重んじるからである。歴史の浅いアメリカには重んじたくても、伝統がない。

 

住まいについても、転居ということを気楽にするか、なかなかしないかが、アメリカとイギリスでは大きく違う。職業についても同じで、次々に勤めを変えるのは、何か問題がるあるからだと考えやすいイギリスの社会に対して、どんどん変わるのは優秀さの証拠だと感じるアメリカでは正反対になる。

 

こういう社会の背景があるから、イギリスでは否定的に解かされるローリング・ストーンのことわざが、アメリカではすばらしい人間を指すように思われるのである。これによっても、ことわざの意味が絶対不動のものでないことが分かるだろう。それを使う人たちのものの考え方、感じ方によって、ときとして、大きく違って見える。灰色は周りの黒い所で見れば白と見えるが、周囲が白ければ黒く見える。それと同じように相対的である。

 

舞台の踊り子がビーズの胴衣を着ている。それに青い光があたると、青く見えるが、赤い色をあてると、赤く輝く。ことわざの意味もそれに似ている。見る人によってさまざまに解かされる。このごろよく言われる言葉を使うなら、“玉虫色”に見える。ローリング?ストーンと言われる人間は、イギリス人には風来坊に見えるのに、アメリカ人にはちょうどその反対の優秀な才能に見える。そして、お互いに自分の解釈を正しいと思っているのだから、おもしろい。

 

ところで、日本人はこの“転石 苔を生ぜず”をどう感じているだろうか。年輩の人には、イギリス流に、動き回るのはろくでもない人間だとする人が多いが、年齢が若くなるにつれて、アメリカ流の解釈が増える。かつて私が学生について調べたところによると、40パーセントくらいがアメリカ流であった。今はこれがもっと多くなっているにちがいない

 

戦前の日本は農村型の社会であった。土地に縛り付けられている。家に縛り付けられていた。家や土地を離れては生きていかれない。定着が尊重されてる。

 

土地を離れることのできた次男坊、三男坊はサラリーマンとなる。これなら別に縛るものはないわけだが、ついこの間まで田舎にいたサラリーマンはなお、縛られたい、じっと同じところにいたいという気持ちが消えてはいないのであろう。終身雇用制を発達させたのである。ごろごろあちらこちらへ動き回るのは、同じところにいられなくなった流れ者である。社会はそういう人間を信用しない。

 

こうして、日本もイギリスと同じように、定着社会だった間は“転石”をおもしろくないものと受け取っていたはずである。

 

戦後、社会が大きく変化するとともにこれが崩れてきた。農村の人たちが競って都会へ出ようとした。人口の流動はかつてないほど激しくなっている。企業に勤めていると当然のことのように転勤がある。それを嫌っていてはうだつがあがらない。内心はとにかく、外見はいかにも嬉々として新しい任地へ向かう。

 

そういう生活をしている人に、転がる石は金がもうからない、などということわざが歓迎されるはずはない。都合の悪いことは、お互いに忘れようとする。どうしても忘れられなければ無視する。

 

それがどちらもできなければ、都合のいいように解釈するという手がある。現にアメリカ人がそうして新しい解釈を作り上げた。日本人だって、別にアメリカ人から教えてもらわなくても、自主独立で、転石は能力あるがゆえに動き回るのだ、という考え方を発明して、これを活用することができる。

 

それに、この場合、コケというものに対する語感もばかにならない。湿度の多い所でないと美しいコケは生えない。我々の国は昔からコケを美しいと思う感覚を発達させてきた。庭園と作ればコケを植える。苔寺は古来、有名で、訪れる人が多すぎて困るほどだ。

 

アメリカのような乾燥した土地ではコケが育ちにくい。美しくもない。むしろ、不潔な連想を伴うかもしれない。イギリスはコケ=金と考えるくらいだから、コケ尊重の社会であることが分かる。コケをおもしろいと見るかどうかでも、転石の評価も違ってくる。

 

日本はもともとは、そして、今もいくらかは、コケを大切にする社会である。ところが、このごろは、日本でもアメリカ的感覚が若い人たちの間に増えてきて、コケを薄汚いものと思うようになった。コケなどつかない転石をよいものを感じる人たちが増えるわけだ。

 

それはさておき、私がアメリカにこのことわざの新しい解釈があるらしいと気づいたころには、そういうアメリカ式の意味に解している例は文献の上ではまだ一つも見当たらなかった。その後、注意していたら、同僚からある本に、ローリング?ストーンを望ましいものと解かしている例があると教えられた。私の考えが単なる推測ではなかったわけで、愉快である。

 

まだ今のところ、外国の辞書にはこの新しい意味を記載したものは見当たらないようだが、日本の英和辞典で、mossの項にこのことわざを載せて、「(米)活動する人はいつも清新である、(英)転石コケむさず(商売を変えてばかりては金はたまらない)。」としているものがある。そのうちに、もっと広く公認されるようになるであろうか。

 

ことわざの解釈は、ひとりひとりの考えが価値観によって決定される。日ごろは自覚しないものの見方、感じ方をあぶり出して見せてくれる。そう考えると、玉虫色のことわざは、ときとしてロールシャツハ・テストの代用になることが分かる。

              (『高等学校国語Ⅰ』東京書籍より)